Survival

人生サバイバルのための知恵を戦国の城から学ぶ

FAZEから新企画!人生サバイバルのための知恵を戦国の城から学ぶ!

第19回 岐阜城 Date:'17.08.14




山の日もある8月今日は 山城の代表格の岐阜県にある岐阜城をご紹介します。
歴史ファンでない方でも知ってる方が多いメジャーな城なんですが、実は現存天守ではなく復興天守なんです。

長井新左衛門尉、斎藤道三親子の下剋上に始まり、
織田家の栄枯盛衰など様々なドラマがあった岐阜城の歴史を振り返っていきましょう。

岐阜城が築かれたのは1201年なんと鎌倉時代です。
二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりで、岐阜城の最初の名前は「稲葉山城」でした。

二階堂氏が衰退した後、一時廃城になるんですが、
15世紀に入ると美濃の守護代斎藤利永が稲葉山城の城郭を修復し居城としました。
この斎藤氏は後に稲葉山城の城主となる斎藤道三の家系ではありません。

この守護代斎藤家が4代城主を務めますが、
4代目当主斎藤利茂の代に守護代の上の位に当たる美濃守護土岐氏で後継者争いが起きます。
当時の守護土岐正房が後継者に長男頼武を差し置いて次男頼芸(よりよし)を推した事が始まりです。

斎藤利茂は頼武側につきます。
そして頼芸側には長井長弘、そしてその家臣後に斎藤道三を名乗る長井新左衛門(斎藤道三の父という説もある)が付きます。

両者は一進一退の攻防を続けますが、頼芸側の長井長弘が攻め取りに成功、
その後利茂は頼芸側に寝返るんですが、後に追放されます。

このまま長井長弘が美濃を抑えるのかと思いきや、謀反が起きます。

長井長弘は不行跡を理由に長井新左衛門に殺害され、
長井新左衛門が稲葉山城城主になります。

新左衛門は守護土岐頼芸を追放、
そしてなぜかわからないですが名字を斎藤に変更します。
斎藤道三の誕生です。

こういった下剋上に次ぐ下剋上から道三は美濃のマムシと呼ばれるようになりました。
しかし運命とは皮肉なもの。下剋上でのし上がった道三は下剋上で殺されます。
息子義龍に謀反を起こされたのです。

娘婿の織田信長の救援も間に合わず長良川の戦いで戦死。
この義龍謀反の理由ですが、実は道三の実子でなく追放された守護土岐頼芸の子という話があります。

義龍の母は頼芸の妾で道三の美濃制圧後側室になりました。
すでにこの時義龍を身ごもっていいたとかという話です。

稲葉山城を奪った義龍は攻めてくる織田信長を何度も撃退しますが39歳の若さで病死。
後を継いだ龍興はなかなかのポンコツで評判の悪い斎藤飛騨守を重用し、
家臣の不満をためてしまい、ついには後に豊臣秀吉の家臣として有名になる竹中半兵衛ら16人が斎藤飛騨守を殺害し稲葉山城を乗っ取ります。(後に返還)

理由としては、悪口を言われたり顔面にしょんべんをかけられたからというくだらない理由です。

その内紛の隙をついた信長は、
これまた有名な墨俣一夜城(諸説あり)などの策を用いて稲葉山城を攻略本拠地とします。

そして稲葉山城一帯かつては井ノ口と呼ばれていましたが、
古代中国 周の文王が岐山から天下を取ったことから岐阜に改名します。

天下布武の朱印もこのころから使われ始め、信長の天下統一のスタート地点になりました。

ここから少し平和な時代が続き、稲葉山城は岐阜城と呼ばれるようになります。
信長の元、岐阜は大きく発展し、息子信忠の代には整備改修が行われました。
信長、信忠死後、三男織田信孝が信長の孫三法師の後見人として入ります。が後に秀吉と対立します。

山崎の戦いと清州会議で 織田家の実権を握った秀吉は、
まず信孝から三法師を奪い返した後、岐阜城を攻撃。信孝を自害に追い込みます。
信孝の死により、信長の一族で力をもった者はいなくなり、秀吉は天下取り突き進みます。

岐阜城は織田の天下取りのスタート地点でもあり終わりの地でもありました。

ここからの織田一族は不憫で信孝からの死後5年後岐阜に三法師が元服し秀信と名を変え戻ってきます。

秀吉の計らいで厚遇され岐阜の伝統漁法鵜飼いを保護したとも伝わっています。
ですが関ケ原の戦いでは西軍に味方し、秀信がいなかった間 岐阜城にいた池田輝政に敗北。
高野山に追放されています。 追放先の高野山でもかつて祖父が高野山を攻めたことが原因で高野山も追放され自害しました。

その後の岐阜城は廃城、加納城が作られます。
それは天下取りを象徴する岐阜という名を家康が嫌ったからだそうです。

戦国を象徴する戦いの舞台となった岐阜城に是非一度行ってみてください

文責/昌信無双

第18回 清州城 Date:'17.07.20




たくさんお城のある、愛知県の城と言えば名古屋城や犬山城を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。 しかし歴史にいろいろ絡んでくるお城はこの清州城だと思いますので、今回はこの清州城をご紹介することにしました。

清州城の実働期間はとても長く、
まずはじめは1405年、当時の守護大名 斯波義重によって築城されました。

最初は下津城という城が当時あり、サブの城だったんですが、
その城が守護代 織田家の内紛により焼失したため清州城がメインに昇格しました。

京鎌倉往還道と伊勢街道に加え、中山道にも連絡出来る。交通の要所であった清州城。 ここを本拠としたのは斯波家ではなく織田大和守家。
まぁ下克上というやつです。
それをまた下克上で奪い取ったのが織田弾正忠家。
そうです。織田信長です。

ちなみに信長の父 信秀も一時期清州奉行時代にこの城を本拠としていました。

信長は清州城を大改修し、約10年清州を本拠地としました。
もちろん信長の名を全国に知らしめた桶狭間の戦いへもここから出陣しています。

そして信長の盟友 徳川家康との同盟もこの城で結ばれています。
この同盟、最初は対等な同盟だったんですが信長の力が大きくなるとだんだんブラックになっていきます。

徳川軍は織田家の主要な戦、金ヶ崎や姉川に当然のごとく駆り出される一方、徳川が大ピンチになった三方ヶ原の戦いには様々な事情があったとはいえ微々たる援軍しかよこさなかったり、武田との内通を疑われ正室の築山殿と長男信康を殺さなくてはいけなかったり、なかなか家康にとってはしんどい同盟だったとおもいます。
この同盟の名前は清州同盟。けど全然清くないですね。

そしてもう一つ、この清州の名がつく歴史上の出来事に清洲会議があります。

映画にもなってましたね。
信長が本能寺で討たれた後、織田家重臣の筆頭家老の柴田勝家に羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興集まり後継者会議が行われました。

信長の嫡孫 三法師を推す秀吉と三男信孝を推す勝家が対立します。

結果は秀吉が勝ち三法師を跡継ぎとしそれを重臣が補佐する形になるんですが、
山崎で実際 明智光秀を討ち仇をとった秀吉が、 この会議で更に発言力や地位を高め天下取りに向かっていく大きなポイントとなった会議です。

その後 城主は織田信雄、福島正則、松平忠吉、徳川義直と城主をかえていきます。
そして1609年名古屋に遷府の命が出され、名古屋城の完成の1613年に廃城。

208年に及ぶ役目を終えました。

現在の清州城は 当時のデザインをイメージして作られたものですが、
天守や小天守を転用、移築した名古屋城深丸西北隅櫓や尾張旭市の良福寺山門は清州城の裏門ともいわれています。

清州城では様々なイベントも行われていますし、立地は変わってませんので昔の出来事を想像しながら是非訪れてみてください。
今日は清州城をご紹介しました。

文責/昌信無双

第17回 出世の城Ⅱ 浜松城 Date:'17.06.14




今回は第二回でご紹介した出世の城『掛川城』と並び
出世の城と呼ばれてる『浜松城』をご紹介したいと思います。

掛川城は山内一豊が入って最終的に土佐一国の大名に出世したことに由来しますが、
この浜松城は江戸時代に重臣を多く輩出したことに由来します。

そんな浜松城の歴史を振り返って見ましょう!

元々は今川氏配下 飯尾氏の居城で、曳馬城という名前でした。
桶狭間の戦いで今川家が衰退した時、当時の当主 飯尾連竜が謀反の疑いをかけられ殺されます。
その後徳川派か 東海道に手を伸ばす武田派で家中が割れ、徳川家康に攻略されました。

飯尾連竜の未亡人が兵を指揮して奮戦し、討ち死にしたという壮絶な伝説もあります。
徳川のものになった曳馬城は、家康の命で浜松城に改名し居城となります。

そして一番の戦い!
この浜松を舞台にした最大の戦いである三方ヶ原の戦いが行われます。

山梨から上洛 または静岡から愛知への攻略を目指す武田信玄が浜松城に接近したのです。

もちろん攻められると思う家康は 覚悟を決めますが、なんと信玄はこれをスルー。
「なめられた」そう感じた家康は家臣の制止も聞かず出陣!(>_<)


台地になっている三方ヶ原を下る坂道を武田軍が下りだしたところを襲えば勝てる!
そう踏んでいた家康なんですが、
当時最強と言われていた武田軍には通じませんでした。

しめしめと言わんばかりに武田軍が反転徳川軍に攻撃をかけます。

当時の武田軍は 初代死ぬまで無傷の男「馬場信春」、身長145㎝の猛将「山県昌景」をはじめスター揃い。
武田軍の猛攻で一瞬にして徳川軍は敗走、本陣の馬印も倒され、
多くの家臣が身代わりになり討ち死にし、家康自身も400年たってもネット上でイジられる脱糞という恥を晒してしまい、
命からがら浜松城に逃げ帰ります。

浜松城に帰った家康は、城門を開け放ち篝火を焚くいわゆる『空城計』を行います。
大抵この場合は見えない所に伏兵が潜んでいるパターンなんですが、家康は湯漬けを食って寝てしまいました。

でも勝手に深読みした武田軍は、浜松城を落とさず進軍を再開しました。
そしてこの東海道攻略途中信玄は死去。徳川は危機を脱します。

この後家康は天下統一まで、武田ゆかりの上田の真田昌幸、
勝ちはしたものの大坂の陣で子 信繁、と武田家を苦手としています。

浜松城は豊臣時代には堀尾氏、江戸時代は徳川の譜代大名が入城しています。
しかしこの城の出世頭は徳川家康本人ですね。

ただ、浜松城は家康にとってトラウマを植え付けられた城でもあります。

当時家康は29歳と若いですがこの経験を経て慎重な性格が形成されていったのでしょう。
当時の家康と同年代の筆者としては家康を見習い、失敗は 何かやるとき思い出して糧として向き合えるようにしていきたいと思います。

今回は浜松城のお話をしました。次回もお楽しみに

文責/昌信無双

第16回 鉄の結束で城いらず!島津氏の内城 Date:'17.05.15




5月になりました。
だんだん暑くなってくるこの時期に熱い戦国武将の城をご紹介しましょう!
今日ご紹介するのは島津氏の内城(うちじょう)です。

戦国時代が好きな方なでも島津は知ってるけど本拠地のお城はどこなんだろう?と思う方は多いと思います。
それもそのはず、島津氏は戦国時代の大名としては珍しく本格的な城を持ってなかった大名なのです。

この内城は城という名は付いていましたが、平屋の屋形作りで、
防御施設としては不向き、有事の際には近くの東福寺城に籠るという守備隊系です。

同じような武将に武田信玄が居ます。
彼も城を持たず躑躅ヶ崎館を居館とし有事の際には近くの要害山城に籠るというシステムでした。

信玄は城を作らない理由として、
「人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉を残したとされています。

島津氏にはそんな言葉は残っていませんが、
島津には兄弟、そして家臣の鉄の結束がありました。

戦国島津の基礎を作ったのは島津忠良。
彼の人を見る目は確かで、優秀な4人の孫を「三州の総大将たるの財徳自ら備わり、
義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久は終始の利害を察する智計並びなく、
家久は軍法戦術に妙を得たり」と高く評しています。

義久は豊臣秀吉の九州征伐まで薩摩、大隅、日向の太守になり、
義弘は鬼島津と呼ばれる武勇を発揮、歳久は唯一秀吉を警戒し家中を引き締め、
家久は沖田畷の戦いで総大将を務めました。
歳久、家久は九州征伐の後亡くなりますが、全員祖父忠良の期待に応えています。

また家臣の育成にも熱心でした。
ある日家臣の子供を集め「この数珠の数を数え早く数え終わったものから褒美をあたえよう」というゲームを始めました。 すぐさま数えだす子供たち、しかし数珠を全く数えずたたんずでいる子供がいます。
忠良が後に呼び出しなぜ数えなかったのか?と聞いてみると「数珠の数は108ときまっていますので」
そこで忠良は「ならば数えるフリだけでもして褒美を貰えばよかったのではないか?」と聞きます。
その子供は「それではズルになってしまいます。ズルをしてまでも勝ちたくありません」と、
とてもしっかりした子供ですね。 この子供後の名を新納忠元といい、
島津になくてはならない者の一人と言われる武将に成長します。

このような忠良の教育が元となり高まった島津の結束。
この真価が発揮されるのが関ケ原の戦いです。

前哨戦の戦いで京都にいた島津義弘は東軍方伏見城の守備を命じられるも、
守将の鳥居元忠に拒否され止む無くに西軍につき、伏見城を落とし関ケ原の本戦に赴きます。

兄からの援軍はなくその兵力は1500から3000、
それに加え数の少なさから味方から侮られ西軍に参加したものの義弘は戦意を失ってしまい戦闘には参加しませんでした。

ご存知の通り関ケ原の戦いは小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れになります。
この時点で300人に減ってしまった島津軍は東軍に包囲され退路を断たれた島津軍は正面突破を試みます。
その時のとった戦法は捨て奸(すてがまり)。退路に点々と銃をもった兵を座らせ、
迫ってくる敵の指揮官を狙撃し、その後槍で突撃するという絶対に助からない戦法でした。

生きて本拠薩摩に帰れたのはわずか80人ほどと言われています。
そんな戦い方が出来たのは島津の鉄の結束があったからでしょう。

討ち死にした中には義弘の甥の島津豊久や重臣長寿院盛敦がいました。
逃走中金を稼げずに自分の武具を売り払った者もいました。

こんなたくさんの男に命を捧げられる武将は戦国時代そうはいません。
終戦後義久は、弟を守るため徹底抗戦の構えを見せる一方、徳川家の井伊直政に和平交渉を頼みます。

井伊直政は関ケ原で島津家に重症を負わさています。
敵であっても武勇が称えられる戦国時代、直政は全力で交渉を行い、
島津家が幕府の総攻撃に合う前になんとか和平が結ばれお咎めなしですみます。

信頼できる兄弟、そして家臣がいれば城などいらない。そんなことを思わせてくれる武将です。
内城の後を継いだ鹿児島城も天守閣などはなかったそうです。
以後明治維新を迎えるまで「島津に暗君なし」と言われる島津家。
城を作る暇があれば人を大事にする。
見かけより中身!現代にも通じることだと思います。

今日のお話はここまで。次回をお楽しみに

文責/昌信無双

第15回 姫路城 Date:'17.04.17




4月6日は城の日でしたね。
お城の話をするのにうってつけのこの4月、今回ご紹介する城は姫路城です。

「日本の城と言えば?」という質問を受ければ真っ先に名前のあがる城ではないかと思います。
日本の国宝にしてユネスコ世界遺産のリストにも登録されていて、現存12天守の一つでもあります。

この城の基礎になる城は、南北朝時代から存在し代々播磨の小大名小寺氏が城主で、
後に黒田官兵衛を輩出した黒田氏が城主になります。

この頃はまだ居館程度の大きさだったんですが、
黒田職隆が城主の時に 姫路城のある姫山という山の地形を生かした城郭に形を変え、
近くに下級武士や行商人などを住まわせ情報収集を行ったそうです。

この居館時代から現在まで姫路城を舞台にした戦いがなかったので、
この姫路城は「不戦の城」と言われています。

黒田官兵衛が秀吉の中国攻めの時にこの城を真っ先に明け渡し、
本能寺の変後の大出世に繋がった事から「出世の城」とも言われています。

そして江戸時代の最初の城主にして 姫路城を白く美しい今の形に改装したのが池田輝政 という人物です。
関ケ原の戦いで東軍に味方し、さらには家康の娘婿ということでこの姫路の地を任されたのが池田輝政。

彼は姫路城を建てかえたときも、「もっと要害があるところのほうに新しく建てたほうがいい!」という家来にも
「外で戦えばいい!要害なんかいらん」という細かい事は気にしない男でした。

実は出来た当初、姫路城は少し天守閣が傾いていたり 窓際に階段があったり
欠陥があるそうですが、彼の性格上特に気にはしていなかったでしょう。
その一方 いいアイデアを思いつくと「うぉー」や「うわー」など奇声をあげる変わった一面もあります。

要害がない代わりに出来た、姫路城の防衛設備である、
鉄砲を出す狭間や石落としを思いついた時にも奇声をあげたことでしょう。笑

表では豪快に外で戦うと言うが、裏では緻密に防衛設備を整える池田輝政。
このしたたかさが家康に気に入られ、戦国時代を生き抜いた秘訣ではないかと思います。

とても広大な姫路城。何回も訪れて仕掛けに感心したら輝政のように叫んでみてはどうでしょうか?^o^

ちなみに『姫路城大発見アプリ』をつかえば、仕掛けがどのように使われてたか体感することもできます。
訪問した時にはそちらも是非楽しんでください。
今回は姫路城を紹介しました。

文責/昌信無双

第14回 沈みの城佐賀城 Date:'17.03.12




4月は発掘作業が話題になっている九州の佐賀城とその城主のお話をご紹介します。
戦国時代に九州三強と言われた龍造寺隆信、後に実権を握った鍋島直茂の鍋島氏が所有しました。

さてこの佐賀城は先月ご紹介した忍城とは全く逆の城です。

忍城は周りの低湿地で敵を妨害する「浮きの城」。水攻めには弱い。
この佐賀城は敵に攻められた時主要部以外水没させる「沈みの城」全く逆の特性を持つ城です。
明治維新まで、鍋島氏の居城でしたが、実は未完成の城です。

主要部以外を沈めて食料の備蓄などはどうするんだ?という根本的な疑問は置いといて(笑)とても面白い城だと思います。
そんな佐賀城の城主はどんな人物なのか?見ていきましょう。

1570年、北九州の大大名大友宗麟は、
佐賀で勢力を拡大する龍造寺氏を危険視し、龍造寺氏の居城佐賀城を攻めます。
大友軍は6万から8万。対する龍造寺軍は5千でした。

宗麟は佐賀との国境付近の高良山に陣を張り、兵をを送り出します。
龍造寺軍の士気は高いものの籠城に必須の援軍の見込みはなく、このまま行けば落城します。

しかしいつまで経っても宗麟の元に先勝報告が来ません。
「何をダラダラやっとんねん!」と宗麟は弟の親貞を送り込み、佐賀城総攻撃を指示しますが、この弟も「凶兆がよくない」とウダウダやってます。

そしてやっと総攻撃の日取りを決めたんですが、なんと前日に宴会を開いてしまいます。
その情報をキャッチした龍造寺軍は大友軍に夜襲を仕掛け、大友軍は大混乱見事親貞を討ち取り大友軍の撃退に成功します。

そしてこの宴会の情報をキャッチしたのが後の城主になる鍋島直茂だったのです。
この戦のMVP鍋島直茂がなぜ主家龍造寺に代わり、佐賀城の城主になれたかというと天下人豊臣秀吉の影響が大きいです。
主君龍造寺隆信が島津との戦で敗死。隆信の子政家を盛り立てます。
仇の島津氏に恭順の姿勢を見せるものの裏で秀吉とつながっていたのです。

秀吉の九州接近を知ると、島津攻めの先陣を切り島津を屈服させました。
この働きを評価され政家に代わり佐賀の政治を秀吉から任されます。
普通はこの辺りで主家龍造寺をないがしろしにし、調子に乗るところなんですが、直茂は龍造寺一門を大切にしました。

江戸幕府になって政家の子 高房が幕府に実権回復を働きかけても、幕府は直茂を支持し、更に龍造寺一門の龍造寺信周や龍造寺長信も直茂を支持しました。 高房はこれを不服に思い自害を図り二度と佐賀には戻りませんでした。

このようなもめ事はありましたが、直茂は本当に龍造寺家を大切にしていました。
佐賀城の改修計画が立ち上がった時も江戸幕府に鍋島氏が「佐賀藩主」として認められるまで手を付けず、
元和の一国一城令が出るまで蓮池城を居城としていました。

直茂は主家の乗っ取り、裏切りが当たり前の戦国の世に珍しく忠義に熱い人物だったのです。
佐賀城が未完成なのもやはり龍造寺家への配慮だったのかもしれませんね。

4月は九州佐賀城のお話でした。また来月をお楽しみに

文責/昌信無双

第13回 忍城 Date:'17.02.17




今回は埼玉県行田市にある、忍城についてご紹介します。
別名「浮きの城」と呼ばれる、湿地帯に存在する城で、豊臣秀吉の小田原攻めで最後まで落城しなかった城として名を残しています。

忍城は粘りの城 と言えるでしょう。
この忍城の粘りの歴史を、城主成田氏ととともにご紹介していきます。

成田氏は平安時代の貴族藤原師輔をルーツに持つ名族です。

そんな忍城の歴史も古く、1478年戦国時代初期に当時の当主成田正等、顕安父子が地元豪族忍氏を滅ぼし築城されたと言われています。

そこに反発した当時の大勢力扇谷上杉家に攻められるものの、上杉はこの城を落とせず和解により忍一帯の領有権を勝ち取ります。

その後扇谷上杉氏は新興勢力北条家との戦いで滅亡。そして1559年新たな上杉に攻められます。

相手はあの有名な上杉謙信でした。

事の発端はしょうもないケンカです。
それは上杉謙信の関東管領就任式の挨拶で謙信に馬から降りて挨拶をしなかったためと言われています。

なぜ馬を降りなかったというと、成田氏は先ほど紹介した通り、藤原の血を引く名門で鎌倉時代に活躍した天皇の子孫の家系の源義家にも馬上での挨拶を許されていたからです。
上杉家も長尾家も藤原家よりいい家柄ではないので「別にええわ」と長泰も降りなかったのでしょう。
そんな事で忍城は上杉謙信に攻められ落城はしないものの降伏、長泰は隠居させられてしまいます。

そして上杉謙信が関東を離れた後は北条家の配下に入っています。
ここでも粘りを見せます。
そして1590年映画にもなった忍城攻めが始まります。

天下統一目前の豊臣秀吉の配下、石田三成が2万の軍勢を引きいて襲来、成田方は総勢2千しかも農民も多数含まれています。

総大将は当主 成田氏長が小田原城に居る関係で、甥の成田長親です。
この頃には関東7名城と言われていた忍城。簡単には落ちず、石田三成は水攻めを敢行、利根川から水を引いてきて湿地帯にある忍城を沈めてしまう作戦に出ました。

しかし思ったほど沈まずしかも堤防を破壊され失敗。そして石田軍の総攻撃も失敗。 ついに最後まで落ちませんでした。

一方小田原にいる当主 成田氏長は豊臣と密かに内通していました。
しかしそんなことを知らない忍城はがっつり豊臣と戦っていたので改易処分になります。

そして後に大名として復活し、ここでも粘りを見せます。
しかし粘りもここまで。孫の代で途絶えてしまいました。

一方、総大将を務めた長親は当主氏長と喧嘩し、家を出て出家。自永斎と名乗り余生を過ごしたとされています。

この時代の名門は新興勢力に飲み込まれる事が多い中、プライドも守りつつ器用に戦国時代を生き抜いた成田氏。
皆様方の参考になればよいかと思います。
では次回もお楽しみに。

文責/昌信無双

第12回 竹田城 Date:'17.01.23




あけましておめでとうございます!

2017年も戦国時代の事を書いていきたいと思いますのでよろしくお願いします!
さて皆さんは初日の出はご覧になったでしょうか?

戦国時代関係の絶景スポットと言えば雲海で有名な竹田城です。
竹田城から見る初日の出はまた綺麗なんじゃないでしょうか?

今日はこの竹田城が絶景スポットではなく「城」としてどうだったのかを見ていきたいと思います。

竹田城があるのは但馬の国兵庫県北東部現在では但馬牛が有名です。
諸説ありますが丹波(京都府北部)、播磨(兵庫県南西部)と接していてさらには近くに生野銀山のあるこの地に、室町時代後期に後の応仁の乱で西軍の総大将を務める山名宗全が築城し、 その家臣太田垣光景が初代城主を務めました。

ご存知の通り山城で、城の構図が虎が伏せているような形をしていたので虎臥城とも呼ばれていました。

竹田城の最初の戦いは応仁の乱です。細川軍に所属する内藤軍が京都の夜久野から攻めてくるんですが、
太田垣軍が竹田城から出撃しこれを撃退し竹田城は最初の戦いに勝利しました。

この戦いで勢いづいた太田垣氏は「戦国時代あるある」を実践(笑)主家山名を乗っとり但馬の支配権を得ます。

そんな太田垣氏にも織田信長の脅威がやってきます。
最初は信長の下に付いてた当時の当主太田垣輝延。
しかし信長が将軍義昭を追放したことに不信感を持った輝延は信長と敵対する毛利と手を組みました。

そこに織田家家臣の羽柴秀吉の弟羽柴秀長が6千400を率いて襲来。
信長本隊でもなく秀吉本隊でもなく秀長隊しかも数もそんな多くない。竹田城もなめられたもんです。しかし返り討ちにするぞー!という気概もなく竹田城はさしたる抵抗もせず降伏しています。

なぜろくに戦いもせず降伏したのか?

但馬は国人領主と呼ばれる力の強い小領主が多く、信長につくか毛利にか意見がまとまらず援軍が来る可能性が低いこと。

そして竹田城は要害にあるとはいえ防御手段が木柵と浅い堀しかなく、織田家の主力兵器火縄銃に対する防御手段がない「時代遅れの山城」では戦っても勝ち目はないと、戦う前から諦めてたのではないかと思います。

その後太田垣氏は播磨に落ちて名前を変え細々と暮らしたそうです。

旧時代の実力者が新時代の実力者に敗れ旧時代の要塞は新時代の新兵器に敗れる。戦自体はマイナーですが時代が変わったことを感じさせてくれる戦であると思います。

しかしその「時代遅れの山城」が今「天空の城」「日本のマチュピチュ」と呼ばれブームになっているのは歴史の面白い所だと思います。
今回は竹田城についてお話ししました。次回をお楽しみに!

文責/昌信無双

第11回 真田幸村と現代ビジネス Date:'16.12.11 文責/谷村昌信




『合戦前夜~武将たちのストラテジー ~真田幸村はブランディングの名人~』
という番組を見させていだきました。

経営学者・入山章栄さんと歴史学者・本郷和人さんがビジネスの視点で現代に役立つ視点で解き明かしていく番組です。

僕の真田幸村のイメージは一発屋のニートという印象でした(笑)。
実際上田城の回で書きましたし、一発屋になるのも大変な戦国時代どうやって一発屋になれたのかが今回わかりました。

過程としては真田幸村の祖父幸隆まで遡ります。
武田に仕えていた幸隆は砥石城の攻略で活躍し真田というブランドが出来ます。それを固めたのが幸村の父昌幸です。
本能寺の変のゴタゴタで奪回した沼田城。ここは交通の要所で周りを囲む北条、徳川、上杉みんなが欲しい所でした。凄い技術を持ってる中小企業みたいなもんですね。 沼田という技術をを守りつつ、色んな所の傘下に入って抜けて繰り返している真田を、入山さんは自動車会社のスズキに例えてました。
スズキはゼネラルモーターズ~フォルクスワーゲンを渡り歩き今トヨタと近い関係にあるそうです。
これはまさに現代の真田ですね。そんなことを繰り返すうちに真田は徳川の逆鱗に触れるんですが、奇襲や水攻めを駆使した「ゲリラ戦法」で撃退。またここで新たなブランドが確立される訳です。 そしてこの戦いがきっかけで徳川と真田は縁組、それと同時に豊臣との縁組も。どうころんでもええような戦略です。

これはミューチアルホステージスーツの青木のようなブライダル、不動産、エンターテイメントのような多角経営の事を言うそうです。

社長自身、真田家が大好きだそうで真田の理念に乗っ取ってやってるそうです。
このどう転んでもええ戦略のおかげで関ケ原で敗れたのを生き残った幸村がしたことはデザインシンキングというものでした。 勝ち目のない戦いでどう名を残すか。

そのためには派手なポジションに配属されないといけない。更に兄信之が徳川方だった関係で彼には信用がない。
彼は大坂城の弱点の南側に真田丸を築きます。そこには実績のある後藤又兵衛が入る予定でしたが変わってももらったそうです。 そこでお得意のゲリラ戦法を使い戦果をあげ大坂城の信頼を得ます。
後藤又兵衛が討ち死など大、物武将がいなくなった中、最後の突撃で名をあげた幸村のデザインシンキングは大成功したのです。

実利をあげるか名を残すか。現代でもよく言われることですが、
藩として実利をあげた兄信之、真田の名を残した幸村。両方成功した大名は改めて少ないなとおもいました。

戦国武将が現代でも人気あるのは、紐解いていけば今生きる知恵を与えてくれる教科書なんだな、と思える番組でした。

第10回 大坂城 Date:'16.12.11 文責/谷村昌信




大河ドラマ『真田丸』もいよいよクライマックスということで、今日は大坂城のお話をしたいと思います。
現在の大阪城は三代目で初代は豊臣秀吉が築き、大坂の陣で焼け落ちたのを徳川幕府が再建、そして第二次世界大戦で焼け落ちたのを再建したのが今の大阪城です。

まず文章中で「大坂城」と「大阪城」を使い分けているところにご注目ください。

戦国時代は「大坂」と呼ばれていたこの城を江戸幕府が再建した時、「坂」の字土編が武士の「士」の字に似てますね。そして右側は「反」武士が反発するみたいで縁起が悪いので改名したそうです。 今回ご紹介するのは戦国時代の大坂城なのでこちらを使わせていただきます。

この大坂城は石山本願寺の跡地に築かれました。石山本願寺は織田信長を10年もの間苦しめた勢力です。石山本願寺が10年生き残れた理由は、まず大坂は京都と海が近い兵糧が運び込みやすく援軍も期待できる事にありました。 実際信長もこの地に大きな城を築こうとしたそうです。そして本能寺の変があり、大阪は秀吉の領地になります。

諸説ありますが一介の農民の彼がなぜ天下をとれたのかはみなさんご存知「人たらしの才」です。
なんか言い方が悪いと思うので言い換えますと彼は積極性と気配りの人です。
学校で一人くらいはいる、なんでも手をあげるタイプです。

有名な逸話で信長の草履を懐で温める。誰もやりたがらなかった墨俣築城を一夜でやってのけるなど、気配りと知恵で躍進します。 ですが「武勇」はあまりなかった秀吉は柴田勝家のようなゴリゴリの武将には気に入られていませんでした。

そんな時、越前(福井)を攻めていた信長。その背後を突かれる形で近江(滋賀)の浅井長政が裏切り絶体絶命に! その退却戦で敵を食い止める役に立候補したのが秀吉でした。それに感動した勝家は兵を貸し与えしここで武闘派の信頼も得るわけです。

信長の死後天下取りに邁進する秀吉は大名も取り込みます。
意外と織田家と関係のある大名以外は滅ぼしていない秀吉。
降伏してきた大名はみなファミリーという考えで、降伏したての島津義久や伊達政宗に刀を持たせ丸腰で歩いて、度量の大きさを見せつけます。

降伏時はつんけんした態度をとりますが後に「あなたはもう豊臣ファミリーだから、これから降服してくる人にはいろいろアドバイスするんだよ」とフォローも忘れません。

秀吉の死後の関ケ原でも多くの大名家が西軍に味方したのは今だ秀吉の威光があったからでしょう。
そして天下人になった秀吉。諸説ありますが大名に与えるものがなくなった秀吉は朝鮮に攻め入ります。
だが大名は疲弊するだけで、秀吉の死後にその不満が続出します。最後の最後で気配りが裏目に出ます。

そして気配りでたらしこんだ大名徳川に滅ぼされたのは皮肉なもんです。自ら弱点と言っていた偽りの講和で堀を埋める作戦で。
もし秀吉の勘が狂わなければ豊臣政権は存続していたかもしれませんね。
今回は大坂城について書きました。次回もお楽しみに

第9回 岡山城宇喜多親子 Date:'16.11.14 文責/谷村昌信




今回は岡山の領主宇喜多氏について紹介したいと思います。

岡山城は小高い丘に建設されていて宇喜多直家が入城するときに当時は石山という所にあったそうで石山城と呼ばれていました。
その石山城を取り込む形で子の宇喜多秀家が岡山に本丸を建築してそれから石山城は岡山城とよばれるようになりました。

秀家は豊臣秀吉の養子にして五大老の一人。関ケ原の戦いの時にも西軍に味方するくらいの豊臣派。
もちろん豊臣系の城の特徴である黒の外観で烏城とも呼ばれています。

このガチガチの豊臣派武将がなぜ生き残ったのか?を今日は紹介したいと思います!

まず特に有名ではなかった宇喜多家がなぜ成り上がれたのかは宇喜多直家の力が大きい。

彼の特技は暗殺。!

中国三大謀将とも呼ばれています。
彼の暗殺の武器は人の好さ。
そのやり方は
自分がこの城の欲しいなと思ったらまずその城の城主と友達になります。そして頻繁に城に行き、当時流行っていたお茶を嗜みます。
喜んだ城主は城の離れに直家とお茶をする為の茶室を作ります。油断しきった城主をそこで暗殺するわけです。

当然宇喜多の兵は隠れています。城の乗っ取りは大成功!てなわけです。

人を信頼させる。謀将というか詐欺師のような手法です。 ここまで心を許すのは当然直家がいい奴だったからです。
その優しさには家臣にも通じていて織田家が勢力を伸ばしていた当時宇喜多は毛利についています。
毛利から織田に鞍替えするとき人質だった戸川秀安の4男を取り戻すために尽力します!


宇喜多の離反を知らない毛利の外交僧安国寺恵瓊が宇喜多領を通っている。それをなんと拉致!人質交換で取り戻したんです。

長男ならまだしも当時そんなに大事にされてなかった4男にここまでする男は他にいないでしょう!
これには家臣もメロメロ。^_^


ただ弟には信用されてなく、あまりに暗殺が多いため、
弟忠家は直家と会うとき常に服の下に鎖帷子をしていたそうです。

直家死後宇喜多の安定を見て出家し安心と名を変えたそうです。どんだけビビってたんでしょうか(笑)

この秀家の後を継いだ秀家は秀吉の養子になり備前宰相と呼ばれるまでになった。宇喜多秀家に暗殺のスキルは必要ありませんね。 けど直家のやさしさのスキルは彼にも受け継がれていました。

秀家の嫁 豪姫の付き人から宇喜多の経理を担当することになった中村次郎兵衛と坂崎直盛や戸川達安らベテラン家臣の対立、宇喜多騒動がおきます。
そこで多くの家来が退職しその後起こる関ケ原の戦いで西軍に味方する。
三成に勝ち目はなく今からでも東軍に来いと誘ったのが元部下戸川達安だったのです。

その後関ケ原で敗れた宇喜多秀家は島津家にかくまわれるわけですが当然幕府にバレてしまいます。 親戚の前田そして島津の助命嘆願により八丈島に流罪になり84歳で亡くなりました。

同じ西軍というだけでなんの繋がりもない島津、東軍に誘ってくれた戸川達安。 なぜみんながそこまでしてくれるのか?それはやっぱり秀家がええ奴だったからでしょう。

宇喜多家は浮田と名を変えて今も八丈島に住んでいる家系もあるそうです。

やさしさを勝つために使った男直家、生き残るために使った男秀家、そんな宇喜多親子を紹介しました!

次回もお楽しみに

第8回 最強の城は最弱の城『広島城』 Date:'16.10.07 文責/谷村昌信




今回ご紹介するお城は安芸の国現在の広島県にある広島城です。

安芸の大名と言えば毛利元就です。
この毛利元就は安芸の国人から中国の大大名に成り上がった男です。
今でいう所の町長が官房長官に成り上がるようなものです。

そんな元就の死後跡を継いだ孫輝元が作ったのがこの城。
別名は鯉城(りじょう)このあたりの地名が己斐浦と呼ばれていたらとか堀に鯉がたくさんいたからと諸説あります。 もちろん広島東洋カープの名前もここから来てます。

広島城が出来たのは天正末期秀吉の時代。秀吉の作った強固で豪華な大阪城や聚楽第を見学して、俺もこんな城作りてぇと思い建設が始まりました。
アドバイザーは秀吉側近であり叔父の小早川隆景の友人黒田官兵衛です。
官兵衛によって設計図が書かれこの城は平らな低湿地帯に作られました。

全く近くに要害がなく輝元自身も不安がっていました。
案の定見物に来た秀吉も「要害がない!水攻めされたら一撃やん」と酷評したそうです。

「官兵衛に騙された!」と憤慨する輝元。
そこに隆景が「アホか!広島が要害やったら謀反の兆しがあるとおもわれるやろ」と諭したそうです。

隆景自身もその気になれば最強の城を作る能力はあります。
なぜわざわざ弱い城を作ったのか?その理由はこの「毛利は天下を狙うなかれ」という言葉にあります。 これは天下を狙い滅んでいった家を見てきた元就が子供たちに残した言葉で隆景はそれを忠実に守っただけなんです。
だからあえて弱い城を作ったのです。

元就は関わってないですが元就の精神が生きた城だとおもいます。
この言葉は孫輝元はわかってなくて後の関ケ原の戦いで総大将になってしまいます。
しかし本戦で「毛利の家督を継承してない孫」輝元の従兄弟吉川広家がこの言葉を守り中立を保ったことで領地は減らされるものの毛利家の取り潰しだけは免れることになります。 この減封で広島を去った毛利家。

その後この広島に入ったのが関ケ原で大活躍した福島正則とは皮肉なものです。

そんな福島正則がやったのが広島城大改修!
当然家康に怒られて謹慎を命じられます。

こういうことがあるから隆景は何もしなかったんですね。
そして家康死後に広島城は洪水に見舞われます。
当然広島城の修理をするんですがこれがダメだった。

このまえ謹慎で済んだし大丈夫だろうという気持ちがあったのでしょうか?けどこの時代には無許可で城を改修してはいいけないという武家諸法度がありました。

雨漏りを直しただけとか諸説ありますが、無届でこれを行ったため武家諸法度にひっかかってしまったのです。 正則は改易処分中、信濃川中島で失意の内に生涯を閉じたと言われています。

その後明治時代まで広島城には浅野家が入り治めました。
先人の言葉を守り(守らなかった奴もいるが)家を残した毛利と、前領主毛利を全く参考にしなかった福島。

対照的な二人の領主がいた広島城を今回はご紹介しました。
次回もお楽しみに

第7回 岸和田城 Date:'16.09.12 文責/谷村昌信




9月です!大阪の岸和田ではだんじり祭りが盛り上がるこの時期、今回は岸和田のシンボル岸和田城の紹介をしたいと思います。

廃藩置県により一度は廃城になったこのお城、地元住民の懇願により再興されました。
そんな地元で愛されるお城なんですがこの城にかかわった人中々明暗分かれてるんです(笑)
今回はこの城にかかわった不運な人ラッキーな人を紹介したいと思います。

■三好実休(じっきゅう)
主家細川氏に謀反し権力を手にした三好長慶、その弟の実休をこの岸和田城に入れます。
実休は兄長慶の信頼もあつい猛将です。

実休はこの岸和田城の改修をします。
四国や京へ交通の要になり岸和田は大きな発展を遂げるかと思いきや、三好実休は久米田の戦いで戦死してしまいます。

そして死に方がマズかった。実休の相手は鉄砲を得意とする和歌山の根来衆。 鉄砲が普及して間もないこの時代、実休は初の鉄砲での武将クラスの戦死者になったのです。 実力はあったのに変な所で名を残してしまいました。

■中村一氏(かずうじ)
時代は移り、秀吉が天下に向けて突っ走っていた時代、城主を任されたのが秀吉古参の家来の一人中村一氏です。 秀吉はこの頃徳川家康と対峙して小牧長久手に出兵中でした。
その留守を狙って先ほども紹介しました根来衆、雑賀衆、粉河衆3万が襲来します。 対する中村一氏、与力の松浦宗清は約8千。

大ピンチの中村軍に助っ人が現れます。なんと大きなタコに乗った仙人が無数のタコを引き連れて現れたのです。このタコたちが敵を追い払って中村軍は勝てたという伝説があります。 泉州はタコが有名ですから昔の町おこしのために作ったのかわかりませんが、岸和田駅の隣の駅名が蛸地蔵という駅です。
信じるか信じないのかはあなた次第です(笑)

まぁなんやかんや岸和田を守り切った中村一氏と松浦宗清(資料にもこんなニュアンスで書いてます)。
中村一氏は近江水口岡山城主6万石に加増、松浦宗清は伊勢井生川口1万石の大名に出世しますが、この蛸地蔵伝説というパンチある伝説のせいで地元の石碑なんかではこの2人は全く語られていません。 実力はあるのにカッコ悪い死に方で名を残した三好実休、全く語られないが出世した中村一氏と松浦宗清

運も実力の内

それを体現するお城岸和田城を今回は紹介しました!

第6回 上田城と真田氏 Date:'16.08.22 文責/谷村昌信




大河ドラマ真田丸もいよいよ佳境。秀吉が亡くなり、いよいよ関ケ原に突入してきましたね。
そして関ケ原の戦いの真田の主戦場、上田城について今回はご紹介したいと思います。

上田城は上田盆地の北部に築城され北に太郎山、南に千曲川、北側と西側に矢出沢川を引き込み守りを固め唯一の攻め口の東側も蛭沢川と湿地帯でとても攻めにくかったとされています。
2回徳川を苦しめた上田城は江戸時代の間に破却されました。 でも仙谷氏統治時代に復元され現在は櫓門などが復元されています。

今回は上田城にかかわった三人の男を紹介します。

《 謀将真田昌幸 》
まずこの上田城の主真田昌幸について説明しましょう。昌幸は武田信玄に仕えていた真田幸隆(幸綱など諸説あり)の三男坊で家督なんか継ぐはずではなかったのですが、才能は抜群。 信玄の奥近習として仕え、我が両眼の如しと高い評価を受けています。

信玄から勝頼に代替わりすると長篠の戦いで兄二人が討ち死に昌幸に真田の家督が転がり込みますが、やがて主家武田は滅亡。 この時期、甲州征伐の時も最後まで武田に従う姿勢を見せながら裏では北条と連絡をとっていたとか後に表裏比興と呼ばれる片鱗を見せています。

その後巧みに主を変えながら情勢を引っ掻き回し、信濃を狙う徳川軍7000を1200で撃退。そして関ケ原に向かう息子秀忠の38000を3000で撃退します。

昌幸の力を恐れた家康は大坂の陣の時に真田が大坂城に入ったとという報を聞いたとき親の方か?子の方か?と震えながら聞いたそうです。実は昌幸は1611年大坂の陣の4年前になくなっています。 生き残るよりか戦乱の世を楽しんでいた、時代の申し子のような人だったのでしょう。

《 勇将真田信之 》
真田と言えば真田信繁(幸村)という人がたくさんいると思いますが、 戦国時代では真田と言えば昌幸か信之。真田幸村なんかおまえ誰?状態だったそうです。
父昌幸と違い温厚で実直、しかし戦の時には先陣を切る勇猛さも兼ね備えた武将でした。 関ケ原の戦いの時真田は父昌幸と弟信繁が(正室が西軍大谷吉継の娘)だった関係で西軍へ。 そして信之は(正室が徳川家臣本多忠勝の娘)だった関係で東軍につきました。

その話し合いが行われた小山評定では家臣も一人も入れない厳粛な話し合いうっかり覗いた家臣は昌幸の投げた下駄で歯が折れてしまったそうな。東西に分かれた真田家は親兄弟敵同士になってしまいます。
策士昌幸は信之の居城沼田城をとろうとします。孫の顔が見たいと沼田に立ち寄りそのまま乗っ取ってしまおうと思ったのです。 そこで活躍するのが信之の正室稲姫です。武装して現れて、父といえ今は敵。入れるわけもいけないと立ちはだかります。
これはダメだと諦める帰ろうとする昌幸にその後ちゃんと孫の顔を見せたというエピソードが残っています。

そして関ケ原が終わり西軍につき死罪にされかけた昌幸、信繁を救ったのが信之そして舅本多忠勝でした。
真田親子を死罪にするなら殿と一戦交える!徳川の忠臣にそこまで言わせるのはそれだけこの信之が出来た人物だったからでしょう。 しかし徳川を2度苦しめた上田城はこの時取り壊されています。その後信之が東軍についたおかげで真田家は存続信濃松代藩初代藩主として戦国の生き残りとして皆に尊敬され天寿を全うしたと言われています。 巧みに戦国を生き残る武将が多い中目立ちはしませんが真っすぐに生き残った人物だと思います。これから知名度が上がる事期待します(笑)

《 一発屋真田信繁 》
今回の大河の主役なんですが歴史上はほとんど仕事はしてないんです。
大坂の陣の時の一発屋です。関ケ原の敗戦で死罪は免れるものの高野山への配流がきまるんですが高野山は女人禁制。 信繁は嫁も子供も一緒がええと駄々をこね九度山に場所が変わります。 生活は困窮し昌幸は真田紐を作り内職で生計を立てます。

一方信繁は四男五女をもうけます。これはお父さん もっと働かなくては!

そして苦労がたたり昌幸は死去。その時信繁は家来に手紙を書きます。 酒くれと!笑 もっと働かなくては!

それでも困窮を極めた生活で信繁の歯は抜け落ち、白髪交じりで大阪城に入るとき山賊と間違えられたそうです。 生活を支えるために稼ぐことって大事なんですね。

その後の活躍は大河をお楽しみにしていただくとしても、こと真田日の本一の兵なりという言葉があります。
この言葉は九州の島津家久が残したと言われています。しかし家久が来た頃には戦いは終わっていたので、聞いた話を脚色したものだったのでしょう。

しかし 大河ドラマをお楽しみのみなさんに、信繁の活躍は変わりないということはお伝えしておきましょう。

人質の時代が長かった信繁。上田城に居た期間はこの3人で一番短かったです。
知恵で後世に名を残した昌幸、目立たないが家を残した信之、そして一発屋信繁。

皆さんは誰の生き方を参考にしますか?この3人の性格を踏まえて大河をお楽しみください(笑)それではまた来月!

第五回 郡山城 Date:'16.07.12 文責/谷村昌信




今回は奈良県の郡山城をご紹介します。
このレポートをお送りしている谷村の出身地でもあります。

10世紀頃作られた郡山城。
戦国時代信長の時代に明智光秀と地元奈良の筒井順慶に、その後秀吉の時代羽柴秀長とその家来藤堂高虎によって改修されています。

奈良県にはいい石が少なく、石垣には罰当たりなことに寺の石地蔵や墓石、さらになんと平城京羅生門の礎石なんかが使われています。(>人<;)
今の時代にやれば考古学者がブチ切れするようなむちゃくちゃな工事です。

現在は復元された門や櫓と本丸の石垣が残るだけですが、桜の名所100選にも選ばれていて、春はおしろまつりが開催されたくさんの花見客で賑わっています。

そんな郡山城の城主は筒井順慶。奈良を代表する大名の一人ですが早死にしてしまったため新しく改修された郡山城には3年しか住んでません。

その後に入ったのが羽柴(豊臣)秀長、豊臣政権のNO’2あの豊臣秀吉の弟で天下統一に大きく貢献しました。
知名度的には大河見てる人は知ってるかなというくらいの人です。

そんな秀長の人生ですが、兄秀吉は秀長が産まれてすぐ家を飛び出したとされるので、兄弟とはいえ面識はあまりなかったそうです。 知らないうちに武士になって出世した全然知らない兄。大人になって初めて会った兄に終生仕えようって思えますか?

人たらしと呼ばれる秀吉が最初にたらしこんだのは秀長だったのかもしれませんね。
そしてこの秀長の領地は奈良、和歌山と大阪南部の和泉合わせて110余万石と広大です。

秀吉の出世ばかり注目されますがこの人も凄い出世ではないでしょうか。
農民から凄い勢いで武士の生活に適応した天才だったと思えます。

■秀長の性格
秀長の性格は、派手好きで俗世的な秀吉とは正反対の温厚、真面目、寛容。
根っからの農民気質です。


真面目さが素人の農民から武士へのステップアップ、寛容さが自分より武士としてのキャリアの長い家来の意見をよく聞きいい作戦を立てれることにつながり、温厚さでいい家来が集まり、兄秀吉のサポートに繋がったと思えます。

主君を何度も変えたことで有名な藤堂高虎も、秀長の家系が途絶えるまで仕えそのあとは一時隠居もしました。そのくらい秀長には忠誠心を持ちやすかった。 このエピソードから、そんなことが伝わります。

■秀長の政治
寺社仏閣の力が強く、治めにくい地域だった奈良。真面目さ故の苛烈な処置もあったようですが、大きな問題もなく治めていたのは、譲歩するところは譲歩する寛容さがあったからでしょうか?
そんな秀長が奈良に残したものは赤膚焼き。赤みを帯びた色合いが特徴で多くの文化人が愛した焼き物です。今でも工房が郡山市と奈良市を中心に残っています。
ちなみに郡山と言えば金魚なんですがそれが有名になるのはまた後のお話しです。

秀長は秀吉より早く51歳で病没します。ブレーキ役を失った豊臣政権は朝鮮出兵や甥の関白秀次の切腹などを皮切りに崩壊していき、後の事はみなさんのご存知の悲劇になります。 もし秀長が生きてたら関ケ原は?とかいろいろ考えてしまいますね。

今郡山城には筒井家でもなく、金魚を名物にした江戸時代の城主柳沢家でもなく、ゲームで人気の筒井家と石田家家臣島左近の旗が翻ってます。

この中なら一番すごいであろう羽柴秀長の旗も掲げてあったら良いのに。
戦国時代に想いを馳せながら、ぜひ一度郡山城址を散策してみてください。

■赤膚焼
赤膚焼
(掲載元)http://www3.pref.nara.jp/kougei-taiken/1054.htm

第四回 小田原城と北条氏のコネクション Date:'16.06.13 文責/谷村昌信




4回目は工事も終わって間もない関東随一の巨大城郭小田原城です。
総構え(城下町一帯を堀で囲んだ城)が大きな特徴の城ですね。

この城の主はもちろん北条氏です。
北条氏初代北条早雲こと伊勢盛時が狩りと称し軍勢を勢子(獲物を追い込む役の人)に化けさせ大森氏から奪い取ったことが有名で、代を重ねることに巨大化していった城です。
そして色んなブロックに分かれている巨大城郭ならではのエピソードがあります。

豊臣秀吉の小田原征伐の時、
北条の臣下 成田氏長の裏切りが発覚します。 開き直った氏長は来るなら来いと啖呵を切る。
圧倒的に多い豊臣軍に包囲される北条軍。
啖呵を切った反逆者成田に対して成敗をする余裕がありませんでした。
成田軍を包囲するしかできないので 豊臣軍に包囲されている北条軍に包囲されている成田軍 というわけのわからない状況に発展したことがあります。
そんな小田原征伐で北条氏は滅んだという事になっていますが、実は北条氏は戦国時代を生き延びているのです。
北条5代のうち最大勢力を築いたにもかかわらず文書では一人だけ呼び捨てにされている氏政は豊臣秀吉にやぶれ切腹になり、大名北条氏は滅亡した。これは教科書上での歴史。

しかし息子氏直は家康の娘婿。
そして自分の命で家臣を助けてほしいという願いに感じ入った秀吉は氏直を許します。
高野山に謹慎となりますがその2年後河内と関東に1万石を与えられ大名復帰、さらには伯耆(鳥取)一国で国持ち大名復帰の話もありました。 しかしタイミング悪く氏直は亡くなってしまいます。そして従弟の氏規の子氏盛が継ぎ北条家は大名として明治維新まで存続します。
なぜ北条は生き残ったか?それはコネクション力です。
96歳で亡くなったスーパー長生き武将北条早雲の息子北条幻庵。彼はとても熱心な教育者でした。

娘が嫁に行くとき、向こうの家に失礼ががないよう書き留めた手紙が残っています。 彼の教育は甥たちにも行き届いており、礼節と立ち居振る舞いにはインテリジェンスがあったのでしょう。 だから秀吉は知的で礼節のある氏直を許したのかもしれません。
氏直死後についだ氏盛の父氏規(氏直の従兄弟)はかつて 今川に人質に出されていました。 同じく人質に出され虐められていたりした徳川家康とは友達になっています。
そして氏直は徳川家康の娘婿。
これら 人柄と人脈が命を助けてくれたのですね。
すべてはこの人質時代からの氏規の人の好さ コネクション そして幻庵の教育のおかげだと思います。

現代でも過去でも必要なのは人との繋がり、関わり方。 改めてそう感じさせてくれるお話でした。

第三回 熊本城 Date:'16.05.13 文責/谷村昌信




ちょうど第二回目の掲載とほぼ同時くらいに熊本地震が発生しました。亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

そして今回の地震で被害を受けた熊本城に関する武将のエピソードをご紹介します!

熊本城と言えば加藤清正でしょう!
城づくりの名人清正の作った熊本城は別名銀杏城とよばれ「この銀杏の木が天守と同じ高さと同じになるとき何かが起こる」と清正がつぶやいたという伝説がありちょうどその言い伝えのとき明治維新後の西南戦争が起こりました。 西郷軍1万4千が攻め寄せますがたった4000の兵で撃退。西郷軍は誰一人城内に入れなかったといいます。

築城1591年から296年たった1887年でも通用する城を作った清正はいったいどんな人物かご紹介しましょう。
清正は刀鍛冶の息子として産まれ、母は豊臣秀吉の遠い親戚。そのツテで家来になり賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳七本槍に数えられ、その後の戦いでも手柄をあげ、肥後(熊本)北半国を拝領。 この熊本という地名も元々は隈本という地名だったんですが「こっちの方がなんか強そう」という中学生みたいな理由で熊本に変えました。

なぜ領地を熊本に選んだのか?秀吉の朝鮮征伐の先鋒になりたくて、秀吉の領地の提示に肥後半国と答えたそうです。
そして肥後南半国の小西行長と共に朝鮮征伐の先鋒を任されます。

小西は薬屋の息子で清正は馬鹿にしていたそうですが、どっちもどっちという気もしますね。ちなみに2人は仲が悪かったそうです。

そしてその朝鮮征伐のとき、家来の一人五助が虎にさらわれてしまいます。
虎はその五助を後で食べようと思って寝てしまいます。なんとか動けた五助は近くにあった固い植物で虎の金玉を縛ります。
それに気づいた虎は暴れますが植物より先に金玉が引きちぎれ死んでしまいました。そして五助は事の次第を清正に報告します。

清正はめちゃくちゃ喜んで、五助の名前を5から100百助に変えます。
そして名字もなかったので百助のこの虎退治にちなんで金玉という名字をさずけました! いや虎は?虎屋とか寅野とかいろいろあるのになぜ金玉?
ちなみにこの金玉さんは昭和まで金玉だったそうです。

さてその後の清正は関ケ原は東軍につくんですが、豊臣家を守ろうと関ケ原後は豊臣秀頼に付きます。 二条城での家康と秀頼の会見後に死去し、豊臣家も滅亡その後加藤家は豊臣恩顧の最右翼だったので改易されてしまいます。

戦国時代を生き抜いて家名を残したとは言えませんがあくまで主家自分をここまで育ててくれた主に忠義を尽くす。転職が増えた昨今には珍しい気概の持ち主です。

平和な時代になって髭は反骨の象徴とされほとんどの大名が髭をそるなか、鎧の頬当てに髭が当たる感覚が心地いいと髭をそらなかった加藤清正。
もう少し彼に器用さがあれば戦国時代を生き残れていたかもしれません。
だがその不器用さ故、今でも熊本のみなさんに愛されている武将だと思います。

第二回 出世の城掛川城 Date:'16.04.18 文責/谷村昌信




新幹線の掛川駅に差し掛かると天守がチラリと顔を出す東海道の要所静岡県の掛川城が今回のテーマです。

天守は戦後10億円かけて再建されたもので他の城郭と比べるととてもかわいらしいですが、掛川市のシンボルとなっているお城です。 そしてこの掛川城にかかわった人は出世を遂げた人が多く、有名所では大河の主役も張った山内一豊。関ケ原の戦いの時この掛川城を真っ先に家康に貸し出すことで後の土佐一国9万8千石に繋がりました。

そのおかげで出世の城掛川城と書かれた看板が多く見れます。掛川城の歴史は古く戦国初期遠州の大名今川家の家臣朝比奈泰煕(やすひろ)が築城この朝比奈氏は戦国を生き抜いたわけではないですが今川の武を支える重臣とまで言われた武将朝比奈泰能(やすよし)を輩出した名家で、その子朝比奈泰朝(やすとも)も今川家没落まで付き従った忠臣で名を残しています。 戦国時代は名誉も出世の一つなのでこれも出世ということにしておきましょう。

そしてこの城にゆかりのある人物で一番意外な出世の方法を遂げた男を紹介します。
今川没落の時、忠臣朝比奈泰朝の元に徳川家康に攻められやってくる泰朝の主君今川氏真です。

その父今川義元は織田信長に討たれたことで有名ですが皆さんイメージ的には化粧やお歯黒や蹴鞠が趣味の軟弱な武士というイメージでしょう。
けど勘違いしないでほしい。今川義元の異名は海道一の弓取り東海一の武士とうい意味です。
そんな男が軟弱な訳がない!確かにお歯黒や化粧はしてましたが武士の嗜みでそれだけ地位が高いことを表しているんです。

そしてこの軟弱なイメージは子氏真の性格なんです。趣味は和歌(和歌集も出してる)そして全く役に立たないであろう蹴鞠の免許皆伝を持ってます。 ちなみに今川氏真と検索すると似てはいるけど今川氏真 サッカーと出てきます。静岡がサッカー大国なのは氏真の影響かも?とか考えてしまいます。

そんな趣味は強いが武道はからっきしダメ、そんな男が偉大な父を失い館を追われ掛川にやってきた。誰もが今川家滅亡を予感する。だが彼は生き残る。

彼は家康に許され掛川を退去嫁の実家北条家を頼るがそこも追い出される。 ここで彼は自分を追い出した家康を頼り浜松に向かいますが特に働くわけでもないのでとても気まずい。

そこに手を差し伸べたのが父の仇織田信長です。全く戦の役に立たない、免許皆伝の蹴鞠が見たいと!普通なら父の仇でこの没落の原因を作った男に会うなんて名門のプライド男のプライドが許さないでしょうが彼は会うんです。

ですがこの会見のおかげで時代が信長から秀吉に代わっても礼儀作法に詳しい文化人として京都でお金をもらって生活していました。 そして徳川幕府の時代でも子孫は高家旗本(礼儀指南役)として1000石の所領とともに指導料をとって家名を残しました。

戦でも政治でもなく趣味で戦国を生き抜いた男今川氏真!

私これが趣味でめっちゃ楽しいんやけど心の中でいつ役にたつねんって!思ったときは今川氏真を思い出してくださいね。 氏真は江戸で亡くなったので墓所は故郷は静岡でなく東京都杉並区観泉寺にあります。皆さんの趣味を今川氏真の墓前で披露してみてはどうでしょう?今回は出世の城掛川城の意外な出世頭今川氏真を紹介しました!

第一回江戸城と徳川秀忠と伊達政宗 Date:'16.03.24 文責/谷村昌信




さて本郷から参ろうか。囲碁を打ちながらそう言い放ったのは伊達政宗、それを聞いて青ざめたのは2代将軍徳川秀忠江戸城の主です。

太田道灌が作った江戸城ですが、徳川家康が関東にやってきたときは廃れてタダのボロい城。それを改築したんですが秀忠の時はまだ未完成でした。

そして本郷という場所は江戸城付近の丘で堀もなく、そっから下れば江戸城を落とせる弱点と言える場所。

これはもし自分だったら江戸城を攻めるならこっからだろうなという意思の表れです。

けど政宗は攻めなかった。これはとても謎です。政宗と言えば豊臣秀吉の時代小田原攻めに遅刻する、一揆の扇動はする。そして関ケ原の戦いのとき秀忠の父家康についたのはいいもののどさくさに紛れて旧領を回復させようとしたり、また一揆を扇動して家康の100万石のお墨付きを自らおじゃんにしたMr反乱分子です。(笑)

一方徳川秀忠この人はめっちゃ普通です!
小学生向けの歴史漫画に、父徳川家康と息子家光の本はあったが秀忠はなかった。

歴代将軍の中ではめっちゃ地味な将軍です。けど戦の才能は普通じゃなかった! 真田親子にフルボッコにされ関ケ原の戦いに遅刻する様子がそのうち放映されるでしょうし、それを挽回しようと大坂の陣の時、今度は兵が戦えないくらい早い行軍をして家康に怒られています。ウソかホントかわからないですが大坂の陣の時敗走して淀川の沼地に頭からぶっささってたという逸話があります。

そう!アカン方で普通じゃないんです!(大笑)

政治の方も家康は全部自分で決めた。家光は全部家臣に任せた。秀忠は半分づつとても普通です。

秀吉、家康にことごとく反抗した政宗がなぜこの秀忠戦も下手で普通な男に逆らわなかったのか?家康に秀忠を頼むと言われたのも原因の一つだけどそれは彼が普通だったからではないでしょうか?

男って生き物は、強い奴と戦いたいという気持ちがあるでしょう。 秀吉や家康と戦ったらどんな攻め方されるんやろ?と妄想しながら一揆を起こしてたかもしれない。おもろいなぁって妄想してたと思う。

けど秀忠との戦いは政宗の妄想ではすぐ勝てて全然面白くなかったなかったのでは?

それよりも囲碁しながらさて本郷から参ろうかってボケてみて本気で青ざめてる秀忠をイジってる方がおもしろいですよね。

その囲碁の後政宗は仙台掘を作ります。飯田橋から秋葉原くらいの所です。 この間の途中の本郷大地削り取って御茶ノ水に谷を作りました。 この工事で仙台藩の財政は悪化しましたが政宗の地位は向上しました。 秀忠はイジったらおもろいし自分も偉くなるし、途中から政宗はこっちの方が確実な道だと判断したのかもしれません。

将軍に喧嘩を売る方向から、将軍をイジるという方針転換が、戦国のサバイバルを生き残り、伊達家を幕末まで残せた秘訣かもしれません。

一方の秀忠も戦乱から平和への移り変わる時代に、普通に産まれ普通にやったから幕府を守れたのかもしれません。 普通を恥じることはない。曲がったことをしなければ、その人の価値は仲いい奴が見つけてくれる。そんな事を教えてくれる将軍と思います。

秀忠は最後も普通でした。 家康のようにてんぷらで食中毒になったというおもしろ創作エピソードはなく普通に胃癌で死にました。

一方政宗は死ぬまで天下をあきらめず戦用の山城から政治用の平城に移らなかったという話もありますg、もしかするとこれも政宗のボケかもしれません。

秀忠と政宗のやりとりに思いを馳せながら、江戸城、御茶ノ水の仙台堀など、巡ってみる1日はいかがでしょうか?